2019/12/26 17:36

▼沢山の方がご購入下さっている「反太平記」。本当にありがとうございます。

▼今回の縦書き・大きめの文字サイズのフォーマットは、昨年、このグループにもご参加頂いている佐々木さんに誘われて参加しました「コミチュア126」の時に出版したものを使用しております。佐々木さん、この場をお借りしてお礼申し上げます。(写真①:コミチュア126)


▼そのフォーマットを携え、張り切って書き始めたのは、やはり関西の方々からも沢山のご声援を頂いている拙著ブログ「大楠公」のシリーズ主人公・楠木正成。(写真②:楠木正成初稿・実はこれで20頁はあります。全部廃棄)


▼しかし、これでは幾らダイジェスト版で書いて見せようと言っても、後醍醐天皇が笠置山へ逃げ込んだシリーズ①から書いていたのでは、私一人の書き分だけで200頁は越えてしまいそうだったのです。


▼そこで「大楠公」シリーズのどこから切り取るのか。やはり太平記のクライマックスと言えば、稲村ケ崎の太刀投げによる鎌倉幕府殲滅だよなあと朧気に考えていたところ、内田めぐみ女史による表紙デザイン案が届きました。(写真③:生品神社の太刀投げ像)

▼まさに「太刀投げ」の表紙絵。これで決まりました。やはり鎌倉を落す新田義貞を中心に描いてみようと決心した次第です。

▼勿論、同時に反乱の狼煙を上げた足利尊氏についても今年の春、足利市の鑁阿寺、京都の石清水八幡宮、夏、台風一過の丹波篠山に車を走らせた篠村八幡等、関西方面も含めた拠点調査を基に書きました。(写真④:鑁阿寺、写真⑤:石清水八幡、写真⑥:篠村八幡矢塚の写真)

▼ただ、今住んでいる多摩川近辺や、生まれ育った鎌倉周辺は、やはり私の一番土地勘のある場所なので、群馬県は太田市新田荘から鎌倉へ攻め上る新田義貞をイメージし易いです。またイメージが思い浮かばないと、直ぐに現地に車を飛ばして色々と妄想する時間を持ち、何とか太刀投げまで書き上げることが出来ました。

▼この本だけに限らず、私がある時代の有名な流れを描く場合には、必ず史跡巡りをします。

▼どんなに有名な話が関係していても、残されているのは石碑1つのような地味な場所が殆どです。

▼大概の人は、このような地味な場所にあまり興味も湧かないのではないかと心配になったりもします。


▼ところが、ちゃんと700年いや千年以上経っても、皆残しているのですよね。私がマイナー史跡巡りが止められないのは、それが嬉しい、それを撮りに行きたいと思うからなのです。

▼私は歴史学者でもなければ、そんなに歴史に詳しくなりたいと思っている訳でもありません。ただ、今生きている私達日本人が、その土地、その土地で過去の本物の人間ドラマに涙し、詳細な経緯や背景を知らなくても、その生きた証(あかし)をその土地に残そうという優しさに触れた時、大きな感動を感じます。私はなんと優しい国に生まれたのだろうと(笑)。


▼そして、これらの史跡が語る大事なことを、時代の流れに沿って書き記し続けたいと強く思うのです。(写真⑦:関戸古戦場に建つお地蔵さん)

▼是非、この感動を皆さんとも共有したいと思っています。そういった観点でもこの本の私の第2章「レジスタンスの旗揚げから倒幕まで」を読んでいただければ幸いです。

P.S.そして、昨年8月から約1年以上かけて色々と調べ廻った楠木正成、足利尊氏、新田義貞の話は、この本だけでなくまだまだブログでも続けます。

http://tamaki39.blogspot.com/2019/02/blog-post.html

また3年前には護良親王の首洗い井戸が私の小学生の通学路にあったことから、護良親王についても雛鶴姫の話と絡めながらブログで取り上げておりますので、この辺りも是非ご笑覧いただけると嬉しいです。

http://tamaki39.blogspot.com/2016/06/blog-post.html — Kitagawa Takehisaさんと一緒です。